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江戸前の魚たち その1

2016/12/07
江戸前の魚たち その1

江戸前の魚たち その1









にっぽんおさかな文化あれこれ  第二回


好評をいただいてております「食」に関するコラムシリーズ、第二弾の「魚」!「にっぽんおさかな文化あれこれ  第一回」では江戸前とはどういう意味か、についてご紹介いたしました。第二回では、江戸前の魚たちの歴史~縄文時代から江戸時代まで~を紐解いてまいります。



前号で、『江戸前』とは、

1) 江戸前面の海
2) 江戸湾付近で獲れる魚
3) 浅草川・深川産のウナギ
4) 江戸風 

との意味だとお話ししました。今回は、その昔から江戸湾(東京湾)にどのような魚が住んでいたのかについてお話したいと思います。


縄文時代の魚たち

 江戸湾の沿岸には縄文時代(B.C.13000年頃~B.C.300年頃)の貝塚が沢山ありますが、これらの貝塚からいろいろな魚の骨や貝殻が見つかっています。また、魚を捕まえる銛、ヤス、つり針、網のオモリなどの道具類も出土しています。
このことから、縄文人が江戸湾で食べていた江戸前の魚介類をある程度特定することができます。

・ 千葉県の加曽利貝塚他(千葉県千葉市若葉区)
  マダイ、アジ、スズキ、ボラ、フグ、サメなどの魚類
  ハマグリ、アサリ、シジミ、カキなどの貝類
・ 東京都の大森貝塚(東京都品川区・大田区)
 ハマグリ、アサリなどの貝類
・ 神奈川県の夏島貝塚(神奈川県横須賀市)
  ボラ、クロダイ、スズキ、ハモ、コチなどの魚類
  シジミ、カキなどの貝類

 江戸湾は、縄文時代前期あたりまで温暖化により海進が進んで内陸部まで海が拡がりましたが、その後縄文中期から寒冷化したため、海面が下がり現代に近い地形になったようです。このため、茨城県古河市辺りまでが海となり、貝塚が存在しています。

 さて、縄文時代から徳川家康が武蔵国他に移封し江戸を本拠地とするまでの2,000年強の間、魚の保存・流通の方法は革新的に変化することがなかったようで、魚介類は海や川に接する地域で自給自足する食べ物だったと考えられます。もちろん、各地域で少しずつ工夫がなされ、少しずつ魚を食する人は増えていったのでしょう。同時に調理法も各地域でさまざまに進化し、琵琶湖の鮒(フナ)の馴れずしや、若狭(北陸)の鯖(サバ)に塩をして鯖街道を通ってきた京都の鯖寿司、氷見(富山県)から塩をして飛騨を通り、信州松本などに運ばれた塩鰤(ブリ)などありますが、これらについてはまた別の項でまとめてみたいと思います。


江戸時代の魚へ

 徳川幕府ができたことで、江戸の漁業が発展していくことになりますが、江戸時代から現代までの魚についてはいろいろな記録があります。
その前に、なぜ江戸前の魚が増えていったのか?ここでちょっと考えてみました。

1) 徳川家康が、魚が好きだったこと。
(家康は鯛の天ぷらを食べて腹痛を起こし、それが原因で3ヶ月後に死んだという説があります)

2) 徳川幕府が摂津・紀州から漁師・問屋などの漁業関係者の移住を促進したこと。
(家康が、昔命を救ってくれた摂津の国(現在の大阪市西淀川区)佃村から名主以下漁師集団を呼び寄せ、漁業特権を与えて漁業の発展を図りました)

3) 徳川幕府が積極的に漁業を保護したこと。
(江戸初期から中期に、漁業専門の村=漁村84を「浦」半農半漁の村18を「磯付村」とした制度をつくり、乱獲を防ぎながら漁業技術の発展を図りました)

4) 創意工夫により、魚の保存・魚の輸送などの技術が進んだこと。
(保存食として佃煮ができたり、鮮度保持のための高速艇「押送船」が開発されたり などなど)

このようなことから江戸前の魚の種類と量が変化していったのでしょう。江戸期以降のお話については次回以降、順次お話ができればと思います。


『江戸』という名称

 最後にちょっと横道にそれますが、『江戸』という名称がどのようにして生まれたか、調べてみました。

 「江戸」という名称は、鎌倉幕府の前期(1180年~1266年)をつづった歴史書『吾妻鏡』に初めて記されました。

 坂東武士団の一つである「秩父党」の秩父重綱の第四子、江戸重継が荏原・湯島・豊島に接する桜田郷に「江戸氏」を称して本拠を置き、その長男重長が、1180年の源頼朝の挙兵に対して平家側の一軍としてこの戦いに加わったくだりが「江戸」の初出と考えられます。

 「江戸」という地名の発祥・由来は諸説あるようですが、川または入江を意味する「江」と入口を意味する「戸」に由来したとの説が定説となり、その川とは隅田川の西に位置する平川(古神田川)で、入江は日比谷入江だと考えられています。この名の発祥の時期ははっきりしませんが、江戸重継が「江戸氏」を名乗る少し前の、11世紀後半から12世紀にかけだと考えられます。

 江戸という町は、江戸氏が衰退したあと、有名な大田道灌が15世紀中頃に江戸城を築城し、その後扇谷上杉氏・後北条氏もこの地を交通の要衝として陸路・水路の整備を行ったことで、都市としての体をなしてきました。このように、すでに交通の要衝であり、近代都市になる可能性があると考えた徳川家康は、江戸に幕府を開いたのではないでしょうか。この江戸幕府の開設がターニングポイントとなり、のちに「江戸前」を生み、魚食文化の発展にも大きく貢献することになりました。

 次回は江戸時代以降の江戸前の魚たちについて書いてみたいと思います。


執筆者: 食いしん坊親爺TAKE


【参考文献】
渡辺栄一(1984) 『江戸前の魚(サカナ)』 草思社.
眞鍋 じゅんこ・鴇田 康則・ボンフォトスタジオ(2002) 『うまい江戸前漁師町』 交通新聞社.
飯野亮一(2016) 『すし 天ぷら 蕎麦 うなぎ: 江戸四大名物食の誕生』 筑摩書房.
冨岡一成(2016) 『江戸前魚食大全: 日本人がとてつもなくうまい魚料理にたどりつくまで』 草思社.
内藤昌(2013) 『江戸と江戸城』 講談社学芸文庫.

【参考サイト】(2016年12月6日アクセス)
水産物市場改善協会(1999)"第1回展示テーマ 「東京湾の魚」"
千葉県教育委員会, “東京湾漁業と千葉の貝塚遺跡”
品川区環境情報活動センター,"大森貝塚と縄文時代の地球環境"
Wikipedia,”夏島貝塚”
Wikipedia,”江戸”
神田川逍遥, “江戸の町と神田川”
亭主の寸話40 ”家康はてんぷらで死んだ?”
大阪府調理食品協同組合,"和食をぐっと引き立てる「つくだ煮」"