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蕎麦切りの伝播

2017/01/06
蕎麦切りの伝播

蕎麦切りの伝播にっぽんソバ談義 第三回


昨年の「蕎麦切りはいつ頃から?」では、日本のおそばの発祥についてお話しいたしました。本年の初稿、第三回では、それがどのように日本全国に伝播するに至ったかを見ていきましょう。




 明けましておめでとうございます。
 皆さま、どのような お雑煮・おせち料理 でお正月を過ごされましたか?
 そして、大晦日には 年越し蕎麦 を食べられましたか?

 さて今回は、「蕎麦切りの伝播」のお話しですが、その前にこの『年越し蕎麦』についてちょっと触れてみたいと思います。

 江戸時代、江戸の町は人口が増えいろいろなお店が繁盛するようになり、商家は特に忙しい毎月月末、仕事の合間に蕎麦を食べる風習が生まれ『晦日蕎麦』と呼ばれようになったようです。

 この風習が一年で最も忙しい大晦日に、縁起をかついで食べる『年越し蕎麦』として、江戸から全国へと伝わり食文化として定着しました。

 この縁起ですが、

1) 蕎麦が細く長いことから寿命・身代が長く続くよう願うという意味
2) 蕎麦が切れやすことからこの一年の災厄を断ち切るという意味

という説が有力です。(相反する二つの説ですが?)

 尚、お雑煮・おせち料理ですが、ハレの日の食事として地域・家庭の食文化を伝える重要なテーマだと思いますので、別の機会にお話ししたいと思っています。


大名の移封で各地へ

 大名がお国替えで新しい国へ移封した時に、蕎麦切りの製法も同時に伝えたとされています。

 具体的には、次のような事例があります。

1) 寛永15年(1638年) 松平直政が、信州松本藩から松江藩へ移封
 ⇒ 出雲そば *1
2) 寛永20年(1643年) 保科正之が、信州高遠藩から会津藩へ移封
 (保科正之は高遠藩から出羽山形藩へ移封、その後すぐに会津藩へ移封)
 ⇒ 会津高遠そば *2
3) 宝永3年(1706年) 仙石政明が、信州上田藩から但馬出石藩へ移封
 ⇒ 出石(皿)そば *3

 このように、蕎麦好きの大名が新しい国に移封する時、蕎麦職人を同行して蕎麦切りを普及させ、地域の特徴ある名物蕎麦が誕生し、何百年もの間伝え受け継がれ全国に拡がったのでしょう。


石臼とともに伝播

 前回の「蕎麦切りはいつ頃から?」では、蕎麦切りの誕生には玄そばを粉にする石臼の発展が欠かせなかったと述べましたが、蕎麦切りの伝播・普及にも職人による製麺技術と、石臼その他道具を活用した製粉技術が両輪となっていたのでしょう。

 石臼、石臼を含む製粉設備(水車*4)は高価なもので、当初寺院・有力大名など限られた富裕層でしか持つことができませんでした

 そうめんの原料である小麦製粉は、鎌倉時代(13~14世紀前半)に聖一国師が宗よりもちかえった水車による石臼製粉で量産できるようになり、京都を中心にそうめんが拡がったようですが、蕎麦の場合はまだまだ手引き石臼が主力で、蕎麦だけでなくお茶を挽いたりして僧侶・文化人が楽しんでいたようで、なかなか蕎麦切りの誕生・普及につながりませんでした。

 徳川幕府になり戦争が収まり大名の移封が行われるようになると、大名・武士以外にも僧侶・文化人・商人等の移住もあり、今まで住んでいた国の食文化(設備も含めて)を伝え、地元の食文化と融合し新しい食文化に変化していったのでしょう。


現代に伝わる各地の蕎麦

 江戸時代に入り、石臼の拡がりと併せて蕎麦切りも大名の移封以外のルートでも各地に拡がり名物蕎麦が誕生しました。そのいくつかをご紹介します。

●椀子そば 
 岩手県の花巻・盛岡を中心に、お客様への振舞いして小さな漆器のお椀に一口のそばを入れ、食べ終わるとお代わりを入れる蕎麦として受け継がれ、今日では岩手県の郷土料理を代表する料理となりました。

 発祥は400年位前の慶長の時代、南部藩主が花巻城に立ち寄り食事を所望した時、 貴人である藩主にお椀に一口のソバを供し、殿様が喜んでお代わりしたことだと伝えられています。

●越前(おろし)そば
 17世紀に入り、福井藩家老・本多富正(家康の次男で初代藩主結城康秀から三代目松平忠昌に仕える)が、府中(現在の越前市武生)城主として赴任した時、蕎麦職人を同行し、蕎麦の栽培を奨励し、越前名物の辛味大根のおろし汁を蕎麦切りにかける食べ方を広めたと伝えられています。

 もともと越前は、15世紀後半から朝倉氏が非常用食糧として蕎麦の栽培を薦め、そばがきやそばだんごを食しており、蕎麦に馴染みはあったようです。

 また、三代目松平忠昌と家老本多富正は、福井藩主になる前は信州川中島藩主であったことから、信州から大名移封で越前へ伝えられたとの説もあるそうです。

  そのほか山形県内陸部(庄内・寒河江・最上川沿い)には、挽きくるみの太い田舎風そば3~5人前を箱板に並べて供する「板そば」があります。

  また、新潟県魚沼・小千谷・十日町地域には「へぎそば」があります。「へぎそば」はつなぎに布海苔を使い、へぎと呼ばれる長方形の器に3~4人前を盛りつけます。


江戸への伝播

 徳川幕府は、各藩大名の幕府への忠誠の証として、

1) 大名が1年毎に江戸と領地を行き来する参勤交代
2) 正室と世子を江戸に定住させる

という制度をつくりました。

 このため、江戸には多くの武士とその家族、中間・小者等が住むようなりました。この制度に加えて職人・商人も江戸に多く入ってきました。

 そうなると、領地の名物料理を江戸に伝えたり、食糧品を江戸に運んだり、江戸近郊で栽培をはじめたりしました。蕎麦切りもいろいろなかたちで江戸に入ってきたと思いますが、まず下層な人々向けの「けんどんそば」が流行り、その後上流階級向けの蕎麦切りメニューが開発されました。

 このように蕎麦切りが日本の食文化を代表する食べ物になったのは、江戸時代に江戸の町で庶民から大名・僧侶・文化人など多くの人に好まれたからだと思います。
 
 また、江戸は日本一の都市になり、18世紀中頃から100万人都市となり世界一だったようで、それに伴って蕎麦切りの消費も伸びていったと考えられます。

次回は「江戸の蕎麦事情」(メニュー・売り方など)を整理してみたいと思います。

執筆者: 食いしん坊親爺TAKE


*1: 割子と呼ばれる方形の漆器に皮ごと挽いた褐色の蕎麦を入れ、上から汁を加減しながらかける蕎麦。四角い容器の隅が洗いにくいという衛生面から、昭和12年頃に現在の丸形の漆器になった。

*2: 大根おろしの絞り汁に焼味噌(後に醤油も)で味つけした蕎麦。会津の観光スポット大内宿の茅葺き屋根の古民家30件以上で食べることができる。

*3: 出石焼の天塩皿に蕎麦をもり、薬味を加えた汁につけて食べる挽きくるみの蕎麦。通常、小皿5枚で一人前。

*4: 東京で、調布市深大寺に水車があり製粉や精米をすることができる。

【参考文献】
新島繁編(1990)『新撰蕎麦辞典』 食品出版社
飯野亮一著(2016)『すし 天ぷら 蕎麦 うなぎ: 江戸四大名物食の誕生』 筑摩書房
内藤昌著(2013)『江戸と江戸城』 講談社

【参考サイト】(2016年12月25日アクセス)
Wikipedia."年越しそば"
出雲そばりえの会『出雲そばの歴史』
Wikipedia."出石そば"
Wikipedia."高遠そば"
ふくい旬の里"越前おろしそば"
Wikipedia."越前そば"
Wikipedia."椀子そば"
石臼による製粉の革新
深大寺水車館