蕎麦切りはいつ頃から?
2016/10/03蕎麦切りはいつ頃から?
にっぽんソバ談義 第二回
ご好評いただいております「食」に関するコラムシリーズ、「にっぽんソバ談義 第一回」では、ソバの実がどこから日本へやってきたのかについてをご紹介いたしました。第二回では、私たちが慣れ親しんだ現在の形状になるまでの経緯をご紹介いたします。
前号でお話ししましたように、ソバは救荒作物として2000年以上前から食されてきましたが、製粉技術が進んで多くの粉を量産できるようになり、蕎麦切り*1 にする調理方法ができてから、やっと多くの人に好まれる食べ物になりました。
そばの製粉は?
日本に入ってきたソバは、始めは殻をとり粒のままお粥で食べるのが主流だったようです。その後、次のような粒を粉にする道具と方法が開発・改良され、徐々に全国に拡がっていきました。
(ア) 「胴搗(どうづき)製粉」 という、木や石の中を円形にくり抜いた搗き臼と杵で粉砕し粉を篩分けする方法と、
(イ) 「石臼製粉」 という、上下の石臼の間にソバの実を入れ、上臼を回転させて磨り潰し、粉を篩分けする方法です。
これらの製粉技術が少しずつ進歩し(特に石臼が)、千数百年を経て多大な労力を使わずに良質な「そば粉」を、ある程度の量製粉できるようになり、麺にすることが可能になったのでしょう。
その間、そば粉を水かお湯で練った『蕎麦掻き』とか、そば粉を水で溶かし焼いたもの『蕎麦焼き』などといった調理方法もできてきました。
いつ頃どこで、蕎麦切りが?
蕎麦切りの発祥については諸説あります。その諸説を時系列で以下のとおり整理してみました。
年号 | 西暦 | 文献 | 内容 | 備考 | |
---|---|---|---|---|---|
1 | 天正2 | 1574 | 番匠作事日記(定勝寺文書) | 定勝寺の修理工事の落成祝いに「振舞ソバキリは金永」とある。 | 長野木曽大桑村(須原宿) |
2 | 天正12 | 1584 | 日本二千年袖鑒 | 「大阪津国屋」というそば屋が開店したとある。 | 津国屋=今日まで続く、ソバ屋の「砂場」 |
3 | 慶長13 | 1608 | 寺方蕎麦覚書 | 尾張一宮にある、妙興報恩禅寺の調理法が書かれている。 | 資料非公開 |
4 | 慶長19 | 1614 | 慈性日記 | 慈性が江戸「定明寺」にて食したとある。 | 近江尊勝寺住持 |
5 | 元和8 | 1622 | 松屋会期 | 大和郡山藩主の朝茶会にて振る舞われたとある。 | 現在の奈良 |
6 | 元和10 | 1624 | 資勝卿日記 | 京都「大福庵」にて食されたとある。 | 権大納言 日野資勝 |
7 | 寛永13 | 1636 | 中山日録 | 尾張藩堀杏庵による、中山道贄川(にえかわ)宿でのそば切りの食べ方の記述。 | 長野木曽 塩尻市(贄川宿) |
8 | 正保2 | 1645 | 俳書「毛吹草」 | 「そば切りは信濃国の名物。当国より始まる」とある。 | |
9 | 宝永 | 1704 ~1710 | 雑録「塩尻」 | 尾張藩天野信景著。「蕎麦切りは甲州よりはじまる。はじめ天目山へ参詣多かりし時・・・」とある。 | 天目山栖雲寺(山梨 甲州市) |
10 | 宝永3 | 1706 | 本朝文選 | 芭蕉の弟子、森下許六の著。「信濃国本山宿よりあまねく国々に」とある。 | 長野 塩尻市(本山宿) |
まだ諸説があるかもしれませんが、この10の説から推測すると、時期については、1574年から50年間で信濃・大阪・尾張・江戸・大和・京都、6箇所で蕎麦切りが食されていたとの記述があることから、16世紀後半から17世紀にかけて始まったことは確実だと思います。
この発祥の地を整理してみると、中山道木曽路(長野県)の発祥説が三説(1,7,10)あり、中山道から甲州街道(長野~山梨県)にかけてとなると四説(1,7,9,10)あります。また、信州を発祥とする説は四説(1,7,8,10)あり、甲州とする説が一説(9)あります。この信州説と甲州説という二つの説が現在まで残っています。
私個人としては、信濃国木曽須原宿「定勝寺」が発祥の地ではないかと思っています。その理由は、「須原宿」の北隣の「上松宿」に「越前屋」*2 という老舗蕎麦屋があり、創業が「定勝寺」の記録の50年後、寛永元年(1624)ということです。さらに、「上松宿」の北隣の「福島宿」に創業300余年といわれる「くるまや本店」*3 という老舗蕎麦屋があることもその理由です。
加えて、正保2年(1645)の「毛吹草」で、「そば切りは信濃国の名物。当国より始まる」とあり、100年以上後の宝永3年(1706)に芭蕉の弟子森下許六が「信濃国本山宿よりあまねく国々に」と記述していることは、木曽路で発祥し甲州街道を経由して江戸に伝わっていったと推測することができます。
しかし、尾張藩天野信景が「蕎麦切りは甲州よりはじまる」と記した甲州天目山栖雲寺には、「蕎麦切り発祥の地」との碑があることから、発祥の地の有力候補として残っています。
もう一つ、嘉永2年(1849)に刊行された「日本二千年袖鑒(そでかがみ)」に天正12年(1584)大阪の「津国屋」(もしくは「和泉屋」)が開店したとの記述があります。店の場所の通称から「砂場」という屋号が生まれ、享保15年(1730)の「絵本御伽品鏡」、寛政10年(1798)の「摂津名所図会」には「砂場 いずみや」の暖簾が描かれた絵入りで文が載せられています。「砂場」はその後江戸に移り現在の老舗蕎麦屋となり、また1985年に大阪に「ここに砂場ありき」という碑が建てられたこともあり、蕎麦切りの発祥の地の候補になっています。
このコラムを書きながら、塩尻から木曽路を南下し、「本山宿」「贄川宿」を巡り、「福島宿」の「くるまや本店」さんと「上松宿」の「越前屋」さんで「秋新」のソバを堪能し、「須原宿」の「定勝寺」を訪れ、ついでに「寝覚ノ床」「妻籠」「馬篭」などに立ち寄る旅をしたくなりました。ぜひ皆さんも、木曽路と蕎麦をテーマにした旅のプランをたててこの秋を楽しんでいただければと思います。
(ちなみに、木曽路が岐阜県に入ったところの中津川・恵那は栗の産地で、この収穫期の時だけ多くの和菓子屋さんが生菓子の「栗きんとん」を製造販売しています。ちょっと足を延ばして食べ比べてみたら、更に楽しい旅になるのでは・・・・・)
次回は「蕎麦切りの伝播」というテーマで、全国各地へ蕎麦切りが伝わり名物蕎麦が生まれたのかを書いてみたいと思います。
次号を読む
*1: 現在一般的に「蕎麦」として食されている麺。
*2: 1624年「名勝寝覚ノ床」の地で創業、現在も営業中。「寿命そば」が看板メニュー。歌麿が描き、十辺舎一九・島崎藤村は著作中で記述している。
*3: お店のHPでは福島関所の代官に仕え、水車小屋を使って製粉・精米業を営む。そば粉を製粉し蕎麦屋を創業・営業中。
執筆者: 食いしん坊親爺TAKE
▼参考文献:
新島繁編(1990) 『新撰蕎麦辞典』 食品出版社
飯野亮一著(2016) 『すし 天ぷら 蕎麦 うなぎ: 江戸四大名物食の誕生』 筑摩書房.
▼参考サイト(2016年10月2日参照):
『Wikipedia:フリー百科事典』「蕎麦」
『大阪・上方の蕎麦』
『蕎麦の泉』
『そば総合情報サイト そばなび』
豊科ばんどこ,「そば豆知識」
「そば(蕎麦)の原産地と日本への伝来」
「そば切り発祥の地?・・・中山道・木曽路・・・」
吉田あたろう(2013)「くるまや本店|創業300年、蕎麦切りの歴史に思いを巡らせる銘店 @長野県 木曽福島」
くるまや本店, 「くるまや本店の歴史」
産経WEST(2014)「意外や意外、「そば店」の発祥地は大阪だった…大阪城築城が育んだ食文化」
KAUMO, 「日本で2番目に古い老舗そば屋「上松 越前屋」の味を堪能しよう!」