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《特徴》
旧暦の八月に催される八月踊りの起源は定かではありませんが、本来「8月お願」「皆納祝い」と称されることからするとかなり古くから始められたそうです。即ち、1637年に宮古、八重山に実施された人頭税制度によって苦しみを味わった人々は、納税の報告をし、さらに豊年を祈念することを年中行事としました。神前で奉納踊りをし人々がごぞって祝い楽しみ、納税の苦しみを自ら慰めていたのでしょう。明治になってから、民俗踊りに加えて、古典踊りや組踊りが首里から伝えられました。
多良間の八月踊りは、いつ頃から始められたものであるか史実は定かではありませんが、その本来の名称が「パチュガツウガン」(八月御願)と称されていることからすると、かなり古い時代から始められていたと思われます。
首里王府は、1609年薩摩の侵略を受けその支配下に服することになりました。在地役人を介しての間接統治でありましたが1629年から常駐在番を派遣しての直接統治となり、首里王府に対する圧力がきびしくなりました。首里王府は、その体制維持の一方策として1637年、宮古、八重山に対して人頭税を課すことになりました。それ以来、農民は穀税のために酷使される状態にあり、15歳以上50歳までの納税義務者は一様に納めていましたが、7年後の1644年から年齢によって差をつけ、15年後の1659年からは、穀税のほかに反布税が課されることになり、住民は一層過重負担の重税に苦しめられたのです。
穀税や反布税を、その年の旧暦7月までに皆納し、翌8月には「パチュガツウガン」と称して各御嶽に祭事を行い、完納の報告とお礼を述へ、さらに次年の豊作を祈願することを年中行事として、その際、神前で「奉納踊り」をすることが慣例となっていました。古老の伝承によれば、古くは「皆納祝い」といわれ、字の帳簿にもそのように記されていたということだそうです。ところで、記録によれば「皆納祝い」とは天保年間(1830~1834)に始まったとされていることから、「皆納祝い」と称されるようになったのは、人頭税制が施行されてからおよそ200年ほど経てからのことだと思われます。
前述のような営みが「皆納祝い」として、住民挙って大いに祝い、共に喜び楽しみ、納税の苦しみを自ら慰め合い、励まし合ったものと推察されます。「八月踊り」は、当時、祝い酒に浮かされた踊りに始まり、それをもとに島で創作された「民俗踊り」のみが演じられていましたが、明治の初期から中期になって「古典踊り」や「組踊り」が首里を中心に沖縄本島から伝播されたようです。
八月踊りの日取りは、両字の二才頭(神社御嶽の祭事を行う人)6人が旧暦の7月上旬会議の上、「ティパズミウガン」(手始め御願)の日と「パチュガツウガン」(八月御願)の日取りを吉日を選んで決め、字長に連絡します。
字長は、旧盆が済む頃になると、手始め御願の日時を広告をもって字民に知らせます。その日は両字とも字の役員や二才頭はもとより、字の有志、各座の師匠及び踊り手等がそれぞれの踊り場に集合し、上酒、中酒、ショウカン(塩)を神前に供えて「手始め御願」を行います。しばらくしてお供えした上酒、中酒を酌み交わしながら、仲筋では「福緑寿」、塩川では「長寿の大主」、続いて「組踊り」等の役をとびとびに舞台で演ずるのです。そのあと、字長は、八月踊り開催の可否について提案し意見をまとめます。食糧自給の時代は、長い干ばつや大暴風に襲われた凶年では、生活に喘いで踊りどころではない、ということが往々にしてあったからです。
その期日は、古くから旧暦の8月8日を「八月御願」の日とし、その日が仲筋の「正日」で、次の日を塩川の「正日」、次の日を「別れ」(両字)としていたが、大東亜戦争後になって旧暦8月14日以前で二才頭が選定した日に行うことになっていきました。しかし、近年になって、再び昔に返り、旧暦8月8日を「八月御願」の日にするようになっています。
八月踊り開催が決定すると、各座の責任者は、昨年以前に出演した人や新たに希望する者を集めて稽古に収りかかります。その練習や準備は責任者の家で行っていましたが、公的施設が建設されたことによって、適当な場所で行っているのです。当日が近づくと舞台稽古で熟練するようにしています。
昭和30年頃までは、指導が厳しく、とくに華やかな役については希望者が多いため抽せんや実際に演技をさせて決めるほどでありました。そのためにせりふの記憶や動作を正しくするための努力は創造に固くありません。近年は指導の厳しさが若干緩み、稽古に要する時間も少なくなってきました。
「皆納祝い」「民俗踊り」に始まったものが、今日まで継承され、発展してきていることには次のようなことが考えられます。
八月御願は、1637年に実施された人頭税の納税義務を果たした安心感、しかも、それは神のお加護によるものとして各御嶽に祈願を行ったことが習俗となって今日に至っています。そして、両字ともに八月踊り初日には早朝、各御嶽に参拝して祭事を行うことが慣例となっているのです。一方、住民の共同体の連帯意識が根強く残っており、その住民意識は大きな存続の力になっているとも考えられます。1628年、宮古に間切制が施かれた際も、多良間島は特別行政区としておかれ、1908年(明治41年)特別町村制施行によって平良村の管轄となり、1913年(大正2年)平良村から分村して独立、その間、長い年月の歴史は宮古島との交通が不便で離島苦に悩んでいました。従って、昔ながらの部落共同体としての自治がそのまま行われていたのです。
仲筋、塩川に出演する踊りの演目は、組踊りをもたらした明治中期以前の民俗踊り時代から、両字とも協議の上、これを公平に分け合って、しかも、異種同数で行っています。八月踊りの日取りも仲よく協調的です。また、技を競うという意味での意欲も、八月踊りの芸能効果をもたらしているものと考えられます。そのように各種要因で今日まで継承されているのです。
[重要無形民俗文化財]
提供:多良間村役場 様
旧暦の八月に催される八月踊りの起源は定かではありませんが、本来「8月お願」「皆納祝い」と称されることからするとかなり古くから始められたそうです。即ち、1637年に宮古、八重山に実施された人頭税制度によって苦しみを味わった人々は、納税の報告をし、さらに豊年を祈念することを年中行事としました。神前で奉納踊りをし人々がごぞって祝い楽しみ、納税の苦しみを自ら慰めていたのでしょう。明治になってから、民俗踊りに加えて、古典踊りや組踊りが首里から伝えられました。
多良間の八月踊りは、いつ頃から始められたものであるか史実は定かではありませんが、その本来の名称が「パチュガツウガン」(八月御願)と称されていることからすると、かなり古い時代から始められていたと思われます。
首里王府は、1609年薩摩の侵略を受けその支配下に服することになりました。在地役人を介しての間接統治でありましたが1629年から常駐在番を派遣しての直接統治となり、首里王府に対する圧力がきびしくなりました。首里王府は、その体制維持の一方策として1637年、宮古、八重山に対して人頭税を課すことになりました。それ以来、農民は穀税のために酷使される状態にあり、15歳以上50歳までの納税義務者は一様に納めていましたが、7年後の1644年から年齢によって差をつけ、15年後の1659年からは、穀税のほかに反布税が課されることになり、住民は一層過重負担の重税に苦しめられたのです。
穀税や反布税を、その年の旧暦7月までに皆納し、翌8月には「パチュガツウガン」と称して各御嶽に祭事を行い、完納の報告とお礼を述へ、さらに次年の豊作を祈願することを年中行事として、その際、神前で「奉納踊り」をすることが慣例となっていました。古老の伝承によれば、古くは「皆納祝い」といわれ、字の帳簿にもそのように記されていたということだそうです。ところで、記録によれば「皆納祝い」とは天保年間(1830~1834)に始まったとされていることから、「皆納祝い」と称されるようになったのは、人頭税制が施行されてからおよそ200年ほど経てからのことだと思われます。
前述のような営みが「皆納祝い」として、住民挙って大いに祝い、共に喜び楽しみ、納税の苦しみを自ら慰め合い、励まし合ったものと推察されます。「八月踊り」は、当時、祝い酒に浮かされた踊りに始まり、それをもとに島で創作された「民俗踊り」のみが演じられていましたが、明治の初期から中期になって「古典踊り」や「組踊り」が首里を中心に沖縄本島から伝播されたようです。
八月踊りの日取りは、両字の二才頭(神社御嶽の祭事を行う人)6人が旧暦の7月上旬会議の上、「ティパズミウガン」(手始め御願)の日と「パチュガツウガン」(八月御願)の日取りを吉日を選んで決め、字長に連絡します。
字長は、旧盆が済む頃になると、手始め御願の日時を広告をもって字民に知らせます。その日は両字とも字の役員や二才頭はもとより、字の有志、各座の師匠及び踊り手等がそれぞれの踊り場に集合し、上酒、中酒、ショウカン(塩)を神前に供えて「手始め御願」を行います。しばらくしてお供えした上酒、中酒を酌み交わしながら、仲筋では「福緑寿」、塩川では「長寿の大主」、続いて「組踊り」等の役をとびとびに舞台で演ずるのです。そのあと、字長は、八月踊り開催の可否について提案し意見をまとめます。食糧自給の時代は、長い干ばつや大暴風に襲われた凶年では、生活に喘いで踊りどころではない、ということが往々にしてあったからです。
その期日は、古くから旧暦の8月8日を「八月御願」の日とし、その日が仲筋の「正日」で、次の日を塩川の「正日」、次の日を「別れ」(両字)としていたが、大東亜戦争後になって旧暦8月14日以前で二才頭が選定した日に行うことになっていきました。しかし、近年になって、再び昔に返り、旧暦8月8日を「八月御願」の日にするようになっています。
八月踊り開催が決定すると、各座の責任者は、昨年以前に出演した人や新たに希望する者を集めて稽古に収りかかります。その練習や準備は責任者の家で行っていましたが、公的施設が建設されたことによって、適当な場所で行っているのです。当日が近づくと舞台稽古で熟練するようにしています。
昭和30年頃までは、指導が厳しく、とくに華やかな役については希望者が多いため抽せんや実際に演技をさせて決めるほどでありました。そのためにせりふの記憶や動作を正しくするための努力は創造に固くありません。近年は指導の厳しさが若干緩み、稽古に要する時間も少なくなってきました。
「皆納祝い」「民俗踊り」に始まったものが、今日まで継承され、発展してきていることには次のようなことが考えられます。
八月御願は、1637年に実施された人頭税の納税義務を果たした安心感、しかも、それは神のお加護によるものとして各御嶽に祈願を行ったことが習俗となって今日に至っています。そして、両字ともに八月踊り初日には早朝、各御嶽に参拝して祭事を行うことが慣例となっているのです。一方、住民の共同体の連帯意識が根強く残っており、その住民意識は大きな存続の力になっているとも考えられます。1628年、宮古に間切制が施かれた際も、多良間島は特別行政区としておかれ、1908年(明治41年)特別町村制施行によって平良村の管轄となり、1913年(大正2年)平良村から分村して独立、その間、長い年月の歴史は宮古島との交通が不便で離島苦に悩んでいました。従って、昔ながらの部落共同体としての自治がそのまま行われていたのです。
仲筋、塩川に出演する踊りの演目は、組踊りをもたらした明治中期以前の民俗踊り時代から、両字とも協議の上、これを公平に分け合って、しかも、異種同数で行っています。八月踊りの日取りも仲よく協調的です。また、技を競うという意味での意欲も、八月踊りの芸能効果をもたらしているものと考えられます。そのように各種要因で今日まで継承されているのです。
[重要無形民俗文化財]
提供:多良間村役場 様
所在地 | 多良間村 |
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展示場&開催場所 | 多良間村
仲筋字:土原御願 塩川字:ピトゥマタ御願 |
問い合わせ先 | 多良間村役場
Tel 0980-79-2011 / Fax 0980-79-2120 |
アクセス | 多良間空港から有償バスで約10分 |
観るポイント | 八月踊りで古典踊りや組踊りの演技は、首里を中心とする沖縄島のそれとは格段の相違があり、野趣で優美に欠けていることは、多良間島の習俗や土着の芸能の影響もあって、中央と異なった伝統をなして今日に至っています。【組踊りや古典踊りの歩行が爪先を殆ど直角に立て踵を上げ、その足先を前へ出して少しひいて踵を起こし、他の足を同じ要領で繰り返す多良間様の運歩であること】、【接司その他の男役で、登場して正面になおると、脚を開き、腰を大きく落とし、伸び上がって身えを切ること】、【ツレや供の役で、やはり両脚を開き、両袖を左右へ一杯にひっぱって地面に水平に上げること】、【男役が、2人あるいはツレを含めた2組で向かい合って議論し、詰め寄るところで立膝して左脚を中心に、何れも身体をブルブル震わせること】。以上のことは、多良間の古典踊りや組踊りの特徴といえます。 |
伝統文化の 体験・一般参加 |
【見学】
多良間の豊年祭を見学いただけます。 日時:毎年旧暦の8月8日9日10日の3日間 場所:多良間村 |
URL | http://www.vill.tarama.okinawa.jp/?cat=58 |