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NPO法人日本伝統文化振興機構は、日本の伝統文化の継承・創造・発展のための活動を行っております。
伝統工芸館 カテゴリ

総数:400件


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総数:400件

伝統工芸品兵庫県

兵庫県
工芸品の分類 和紙
工芸品名 杉原紙

主要製造地域:兵庫県




《特徴》
何より、色の白さが最大の特徴です。
現在は、漂白剤などで白くしている紙もありますが、杉原紙は自然な白さが他の産地よりも特徴的だといえます。

墨で字を書いたときには、墨の色を際立たせてくれるのです。
この白さを出すために、冬の川さらし作業をかかさずに行っています。また、ふんわりとした柔らかい紙であることも特徴の1つです。
加工品にした場合に、手触りがとても優しいのです。

[ 兵庫県指定伝統的工芸品 ]
提供 : 杉原紙研究所 様

素材 楮(コウゾ)
製法・工法 【1】 楮刈り  
杉原紙の原木である楮は、春に株から何本もの芽が伸び、その年の秋には、2~3mになります。霜が降り葉が散ると刈り取り、切り揃えます。  

【2】 楮蒸し
長さ1.2mに切り揃えた楮を、皮を剥ぐために大きな釜で蒸します。

【3】 皮はぎ  
蒸した楮は、熱いうちに皮を剥ぎます。  

【4】 楮もみ
剥いだ皮は外皮を削りやすくするために足でもみ柔らかくします。

【5】 黒皮とり  
黒皮の外皮を包丁で削り取って、白皮にします。  

【6】 川さらし
白皮を杉原川に一晩浸しておき、雪や冷たい水にさらして白くします。外気が冷たいほど白さが増します。

【7】 きず取り  
良質の紙を作るために、小さなきずも切り除き美しい繊維だけにします。  

【8】 釜だき
白皮を一晩清水で浸しておき、これを大釜でソーダ灰を加えて煮騰させ、繊維のまわりの不純物を水に溶けやすくします。

【9】 楮みだし  
煮えた楮の皮は清流で不純物を流し去った後、「チリ」を取り除きます。冬は手が切れるくらい冷たく困難な仕事ですが、この中から本当の良質な紙が生み出されます。  

【10】 紙たたき
繊維をほぐすために、紙料をたたきます。昔は木づちでたたいていましたが、現在は機械(うす)で叩解します。さらにビーター(鎌のついた機械)で繊維を細かくします。

【11】 紙漉き  
水を張った漉舟によくたたいた紙料とサナ(トロロアオイの根からとったのり)を入れ、よくかき混ぜます。
紙は簀桁を揺らしながら1枚1枚漉いていきますが、その1枚の紙を漉くに は化粧水、調子、捨水の3行程を踏まえて行います。漉き終わると、簀を桁からはずし、湿紙を紙床に150~200枚に積み重ねて いきます。

【12】 圧搾
漉いた紙を一晩放置し、翌朝ジャッキで圧搾します。圧搾は時間をかけゆっくりと行います。

【13】 紙干し  
圧搾した紙を1枚ずつはぎ取り、干し板に刷毛で貼り付け天日で乾燥させます。
しかしながら天候不順や能率の面から、今日では鉄板での乾燥が中心となっています。

【14】 選別
できあがった紙全部が製品として売れるわけではありません。
仕上がった紙を1枚1枚念入りに検査し、合格した製品のみが商品として売りに出されます。
歴史 多可町加美区の北部、杉原谷で紙をすき始めたのは、7世紀の後半と推定されています。
杉原紙は奈良時代には「播磨紙(はりまがみ)」と呼ばれ、主に写経用紙や薄紙がすかれていました。
この時代、全国には紙をすく国が20近くありましたが、播磨は、出雲・美作・美濃・越前・尾張などと並ぶ製紙の先進国として知られ、天平16年(744年)には、1万枚、同18年には1万7千枚の注文が播磨国に出されたという記録も残っています。
また、昭和35、6年ごろに行われた、正倉院の紙の研究調査報告にも、播磨国司が天平18年に提出した「播磨国正税帳」に用いられている紙は、出雲などに比べると、はるかに技術が進んでいるという記述があり、播磨紙の優秀さを明らかにしています。
さらに、承和3年(836年)、唐の都・長安の青龍寺に遣わされた、東寺の僧が携えていった贈物のなかに播磨雑色薄紙40帖が含まれていたという記録もあり、当時、播磨紙が名実ともに日本一の紙として珍重されていたことがうかがえます。

播磨紙が杉原紙と呼ばれるようになったのは、平安時代になってからのことです。
関白藤原忠実が記した日記「殿暦」の永久4年(1116年)7月11日のところに、この日行った先祖の法要の引出物として、娘の泰子と長男の内大臣忠通とに、それぞれ藤原家代々の家宝に添えて、「椙原庄紙(すぎはらしょうのかみ)」100帖を贈ったと書かれています。
椙原庄紙の名が文書のなかに表れているのは、現在のところこれが最初ですが、この地が藤原氏の荘園とされたのは11世紀後半のことで、椙原庄紙の名はそのころに生まれていたと考えられています。
最初は藤原家だけで使用していた椙原庄紙ですが、平安末期から鎌倉時代には、多くの人に愛用されるようになり、「椙」の寺が「杉」に変わり、杉原と略して呼ばれるようになりました(スギハラ、スイバラ、スイハラなど、いろいろな呼び方がされました)。

隆盛を誇った杉原紙も、18世紀をピークに徐々に衰退の途をたどることになります。
それは、 紙の需要が減ったからではなく、製紙の中心地が、経済の先進地から後進地へと移ったことによります。
従来の製紙中心地は、製紙から他のもっと効率のよい産業に転換するのです。
杉原谷でも造林業や炭焼き、凍りコンニャク製造などいろいろな産業がおこり、それに職を転じる人が増えたこと、原料の楮が少なくなり、他地方から買い込まなければならず、製紙業では収益をあげることができなくなったこと、などが大きな原因でしょうか。
大正初年にも、杉原谷には三谷をはじめ、清水・箸荷・門村などに数軒の紙すき農家がありました。
しかし若者は、年々増えていく他の職業に従事し、老人だけが細々と、遠い祖先から受け継いできた杉原紙の伝統を守り続けていたのですが、それも1軒減り、2軒減り、とうとう大正14年、7世紀以来続いてきた、杉原谷での紙すきの永い歴史は、その幕を閉じたのでした。

西洋紙に圧倒され、その後数十年、杉原谷の紙すきは途絶えていましたが、これがよみがえることになるのです。 幻の紙「杉原紙」を再び世に出していただいたのは、寿岳文章(じゅがくぶんしょう)博士の和紙研究に始まります。
寿岳博士は、昭和15年に新村出(しんむらいずる)博士とともに杉原谷村を訪ねられ、和紙の代名詞ともいえる杉原紙がこの地ですき出されたことを実証してくださったのです。
このことによって、町内の郷土史研究家・藤田貞雄先生が深く感銘され、以降独自の研究をされました。
日本が高度経済成長を果たし、心の潤いや充実に目を向けだした昭和40年代になると、こうした輝かしい歴史と永い伝統を誇る杉原紙を復興させようという動きが起こり始めました。
昭和41年には、杉原谷小学校の校庭に、「杉原紙発祥之地」記念碑が有志の人たちの手で建てられ、同45年には藤田貞雄先生が、30年をかけて杉原紙を研究された集大成「杉原紙」を出版されました。
また 同年、紙すき経験のあるお年寄りを中心に、紙すきの道具を集め、実に50年ぶりに杉原紙の紙すきを現代に再現することに成功したのです。

◆展示場所
杉原紙研究所
 (杉原紙を使った様々な製品を生産・販売しています)
 〒679-1322 兵庫県多可郡多可町加美区鳥羽768-46  
 TEL : 0795-36-0080