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江戸の魚河岸

2017/10/12
江戸の魚河岸

江戸の魚河岸









にっぽんおさかな文化あれこれ  第五回


好評をいただいてております「食」に関するコラムシリーズ、第二弾の「魚」!「にっぽんおさかな文化あれこれ  第四回」では江戸前のウナギや海苔、庶民が食べていた魚にスポットを当ててご紹介いたしました。第五回は、魚河岸の誕生から、築地市場が日本の台所へと発展していくまでの過程についてお話ししてまいります。



江戸の魚河岸

 前回の「江戸の魚たち その3」では ウナギ・海苔・庶民の魚の3部に分けて江戸での魚の消費がどんどん増えていった様子をお話ししました。
 
 その最後の「●タコ(蛸):」の内容で追加訂正があります。

 西の明石に対して東の久里浜が有名でしたが、量が減少し外房の大原が代りに有名になっていると書きましたが、久里浜・大原と共に佐島(神奈川県)・鹿嶋(茨城県)も東の代表的なブランドになっています。久里浜・佐島とも横須賀市で三浦半島の付け根に位置しますが、久里浜は東京湾・佐島は相模湾と三浦半島の東と西にあります。只、同じ地域ということもあり茹で方、調理方法が似ているようです。

 一度食べ比べてみたいですね!

 さて今回は江戸の人口が増え、漁場・漁法等も開発され漁獲量が増えてきたことによって、魚市場を中心とした新しい流通システムが誕生・発展していった経緯をお話ししてみたいと思います。
  

魚河岸とは

 魚河岸とは、魚市場のある河岸(船から人や荷物を揚げ降ろしするところ)という意味ですが、そこから 「魚河岸=魚市場」として日常の会話で使われています。
更に最近では築地の中央卸売市場本場の水産部門の通称として使われるようになりました。


日本橋魚河岸の誕生

 『江戸前って!?』『江戸前の魚たち その1』で書きましたように、16世紀終わりから17世紀初め江戸に徳川幕府が誕生し、関西から漁師を呼び寄せ江戸湾内での漁業特権を与え幕府の台所を賄いました。
 
 漁師たちは幕府に納めた魚の残りを売ろうと思い、露店(だと思います)を開いたようですが、慶長8年(1603年)頃、日本橋川の北側日本橋~江戸橋にかけて本小田原町を中心に小屋を建て、本格的な市場がスタートしました。
 
 最初は漁師の兼業のようでしたが、専業の魚問屋が誕生し、仕入れ先である生産地と結びつき集荷を増やし日本橋魚河岸を中心とした独特の魚の流通システムを作っていったようです。
  

魚河岸での取引

 日本橋川を利用して運ばれてきた魚介類は、桟橋につながれた平田舟の上で取引され陸揚げされ、河岸に作った小屋の表側の店先の板(板舟)の上に並べられ売買が行われていたとのことです。

1) 漁師・荷主が運んできた魚介類を平田舟の上で問屋が買い取る
2) 問屋または問屋の傘下の仲買が魚介類を板舟に並べ、料理店・小売店・棒手振り(行商人)に販売する

が初期の基本形だったようですが、江戸の人口の増加・物通の進歩に伴う広範囲からの入荷等で扱い量が増え、取引の形態も複雑且つ多様化していったようです。

 ここでちょっと現在の取引形態との大ざっぱな比較をしてみようと思います。

江戸時代現代
漁師・荷主漁業組合・地方市場・産地市場・生産者
(漁師・メーカー *1)
問屋荷受 (卸売業者 *2) 
仲買仲買 (仲卸業者)

*1:干物・蒲鉾など魚介類を原料した商品などの製造
*2:セリをおこなう 最近では生産者からセリを行わず荷受が直接小売り等卸す相対が増えている

 また、大手外食チェーン(回転ずし他)・スーパーなどが、国内集荷市場や海外から商社や水産会社を経由(流通を短縮して)して市場を通さず、購入するという「市場外流通」が増加しています。


日本橋から築地へ

 明治時代に入ると、近代化の動きが始まり魚市場についてもいろいろなルールの整備が行われ始めました。

 東京では魚市場を千住・新場・日本橋・芝金杉の4ヵ所に統合し、中央卸売市場の計画が進めていた矢先の大正12年9月(1923年)に関東大震災がおこり、日本橋魚河岸は全て焼きつくされ、約300年続いた日本橋魚市場も幕を閉じてしまいました。

 大震災直後、芝浦に仮設市場が設けられ、その後暫定市場として海軍所有地の築地居留地跡で臨時の市場が稼働、昭和10年(1935年)に正式に開場しました。
 
 約300年続いた、この日本橋魚河岸(魚市場)の記念碑が日本橋にありますので、是非一度足を延ばしていただいたらと思います。日本橋の東側、地下鉄「三越前」B6出口を出て左手にある「乙女広場」に『日本橋魚市場発祥の地』と刻まれた碑と案内板があります。


築地市場の発展

 東京都が運営管理する「東京都中央卸売市場」は11カ所ありますが、築地市場はその一つで、7社の卸売会社(荷受)からなる水産部(魚市場)と3社の卸売会社からなる青果部があり、それらの卸売会社(荷受)からセリ等で商品を購入し買出業者(小売り・飲食・加工等)へ販売する1,000店近い仲卸業者(仲買)の店舗で組織されています。更にその周りに2階建ての建物があり、魚・青果の関連商品(海苔・お茶・乾物・包丁など)販売店と飲食店が店を構えています。これらを総称して「場内」と呼んでいます。

 また、築地市場の周辺には場内で店を構えられない関連商品(魚・青果以外に肉などもある)の販売店や飲食店が商店街を形成していますが、これらは「場外」と呼ばれています。
 
 戦後の日本経済の成長にリンクして首都東京の人口も急増し、江戸(東京)の台所から日本の台所に発展していきました。 漁師・漁協などの生産者からみると比較的高く且つ確実に売れる築地魚市場に魚を卸したいし、買い手のバイヤーからみると求める品質・多くの種類の魚を選べる築地魚市場で魚を仕入れたいとの思いが、流通の驚異的進歩に相まって日本の台所と呼ばれる魚市場になっていったのでしょう。 更にその規模は、取扱量、金額、取扱品目等から世界最大ではないかと思われます。*3

*3 世界の大きな魚市場は「メルカマドリード(スペイン・マドリード)」「シドニー魚市場(オーストラリア・シドニー)」など
 
 さて皆さんの中で築地場内・場外に行かれたことのある方もいらっしゃると思います。40年近く前、筆者が初めて長靴をはいて場内に入り仲卸の店を廻った時、狭い通路を荷物を積んだターレットや台車が我が物顔に走り回っていたため、びっくりして怖かったことを思い出しますが、当時は場内に入ってくるのは小売店・飲食店などのプロ(商売人)の買出人ばかりでした。もちろん、場内の飲食店で食べているのは買出人や市場関係者がほとんどでした。バブルがはじけてからだと思いますが、グルメの一般の人が場内の飲食店を食べ歩き、場外の飲食店を含めて築地ブームがスタートしたのだと思います。

 また、海外での寿司ブームなど、アジアを中心として魚の消費が増えるにしたがって、外国人観光客も築地を訪れ、寿司や海鮮丼の店に長蛇の列ができるようになりました。


築地から豊洲へ

 築地魚市場は昨年(2016年)豊洲へ移転の予定でしたが、土壌汚染等の問題で延期が決まり、今年の夏、平成30年~31年(2018年~2019年)に移転すること決まりました。多くの方がこの問題に関心をもたれていると思います。

 前項で書きましたが、築地で80年以上開場してきた魚市場(中央卸売市場)は、施設・設備の老朽化、水産物の積み降しスペースの不足、設備面での衛生管理の限界等の理由で2001年(平成13年)に、豊洲へ移転することが決まり、工事が開始されました。

 場内・場外を含めた築地市場は世界最大の魚市場だけでなく、日本の観光名所となっていますが、築地に残る場外と場内仲卸約60店舗は入る「築地魚河岸」がこれからの築地を守っていくことになります。

 来年から、新しく営業を開始する中央卸売市場・豊洲市場と築地に残る築地場外市場が、日本橋魚河岸から400年以上続く魚市場をどのように発展させていくか楽しみです。


 今回で「江戸の魚」についての話はいったん終了させていただき、次回は「マグロ」についてお話ししたいと思います。


【参考文献】
冨岡一成(2016)『江戸前魚食大全―日本人がとてつもなくうまい魚料理にたどりつくまで』草思社
林順信(1998)『江戸東京グルメ歳時記』雄山閣出版
渡辺栄一(1984)『江戸前の魚』草思社

【参考サイト】(2017年9月28日アクセス)
魚河岸
江戸の繁栄を象徴する-魚河岸
江戸の台所・魚河岸
日本橋魚河岸から築地市場へ
築地今昔ものがたり
魚の知恵袋「水産物の流通の仕組み」
ひとりで東京歴史めぐり
請下(仲買人)の発生
コトバンク 仲買人とは
コトバンク 棒手振りとは
Wikipedia“築地市場“
Wikipedia“築地市場移転問題“